レッサーパンダ(小熊猫)の情報を提供。Pop'n Callは動物園・遊園地を対象に活動しています。

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レッサーパンダについて書いてある書籍から、関係する部分を抜粋し紹介しています。
このページ内の文章はすべて引用文です。

調査


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世界動物発見史

レッサーパンダを発見したのはトマス・ハードウィック将軍だと一般には考えられています。
彼はスタンフォード卿の時代にインドを探検し、インド産アンティロープを記載したことで動物学の文献に名を残している人物です。
ところがこの将軍はずっと後まで自分の動物学上の研究を記録しなかったため、事実はあまりはっきりしていません。
彼がイギリスへ持ち帰った動物の一部は(正確にいえば北部山岳地帯でとれたものは)、デンマークの植物学者ナタニエル・ヴァリクから手に入れたものでした。
ヴァリクは1820年にカルカッタで東インド会社の植物園園長の地位につき、ネパールへ数回旅をし、中央アジア山岳地帯の植物を手に入れていました。
それゆえ、ふさふさした尾をした、赤錆色に黒い模様のあるハードウィック将軍の「ヒマラヤギツネ」をつかまえてカルカッタへ持ち帰ったのはヴァリクであったという可能性はたいへん大きいです。
キュビィエの義理の息子、アルフレ・デュヴォセルも、やはりヴァリクからネパール産の動物を数種受け取っています。

その中にはおそらくレッサーパンダもあったのでしょう。
というのは、パリ植物園の園長の息子、フレデリク・キュヴィエが動物学の著書にヒマラヤ産の「火色のネコ」(Ailurus fulgens)を入れているからです。
彼がひねりだしたこの誤った属名は、その後ずっとレッサーパンダの名に使われています。
レッサーパンダがキツネでもなくネコでもないとわかったのは1869年のことです。
シンプスンという名のインド探検家が、「ニャリア・ポンガ」(このネパール語がなまって「パンダ」という、意味のない言葉になりました)の生きた個体を3頭捕え、その内の1頭を(かなり哀れな姿になってはいましたが)ロンドン動物園へ持ち帰りました。
彼は動物園の園長バートレットに、航海中この動物に米の飯と草と干し草とミルクを与えたと語り、バートレットはこの動物虐待を嘆きました。
彼は、このキツネ色の動物がなぜこれほど弱った様子をし飢えているのか、ミスター・シンプスンの残りの2頭がなぜ死んでしまったのかこれでわかった、と考えました。
彼がその捕獲者に断乎として、肉食動物の健康を保つには新鮮な肉が必要である、と語ったであろうことは想像に難しくありません。

シンプスンが彼に反対して、自分が問い合わせたところではパンダは純粋な草食性だと述べたときにも、バートレットはただ軽蔑の笑いを浮かべて、この死にかけている「キツネネコ」のために上等のニワトリとハトを用意しました。
しかしパンダは肉には見むきもしませんでした。 バートレットを驚かせたことに、その動物はただ甘くした茶をわずかばかり飲み、後はあたりに偶然おいてあった少しばかりの豆をがつがつと食べただけでした。
この動物園園長は考え込みました。
(一番いいのはこの動物に自分の食物を探させ、その扱い方について科学に何か指摘を与えさせることです。)

そこで彼は自分の庭にパンダを放しました。
それから起こったことは肉食動物のあらゆる習慣に反していました。
この飢えて憔悴しきったパンダは熟れずに落ちたリンゴの方へはってゆき、それをむさぼり食ってから、木の葉と若芽を少し食べ、このオードブルの後でバートレットのバラの茂みに直行し、そのつぼみと花をたちまちかたづけたのです。
これならパンダは本当に草食動物だったのだと、ブライアン・ホジスンも言葉少なにこのことを請合いました。
彼は手紙で、自分の観察によれば、パンダは果物と根っことまた主にタケノコを食べて生きていると、知らせました。
バートレットはタケノコを手に入れることができなかったので、バラのつぼみとリンゴと漿果類を与え続けました。
パンダはこの食物で元気になり、まもなく旅の疲れは完全に回復しました。

ところで、キツネの毛皮とネコの顔とアライグマの尾をもったこの小さな草食動物は、肉食動物のどの科に入れるべきなのでしょう。
一部の動物学者はこの動物を「ネコグマ」と呼び、この動物とビントゥロングとカコミスルとを一まとめにして特別のグループを設けたいと考えました。
現在わかっているようにビントゥロングはインドネシア産のジャコウネコの一種であり、カコミスルはアライグマ科の原始的なメンバーです。
けれど当時はこのことは全くわかっていませんでした。
ビントゥロングは「クマテン」か「テングマ」で、カコミスルは「ネコイタチ」だと考えられていました。
分類学者たちはこの両種と一緒に新発見の「ネコグマ」をアライグマやテンやジャコウネコの分類棚の隣の棚に押し込みました。
ある動物学者はパンダを「ヒマラヤアライグマ」と呼んで、事をもっと単純にさえしていました。
幸いにも、レッサーパンダの大形の仲間が見つかったのは、シンプスンのレッサーパンダがロンドンについてバラのつぼみを食べたその年のことでした。

---ここで「白熊(パイシオン)古代中国の年代記にでてくる有名な黒い模様のある白熊−当時の学者たちは頑固にホッキョクグマだと主張し続けていた」の話が入りますが省きます。---

1869年4月6日にダビィド神父は中国人から小形の動物を受け取りました。
それは毛皮が赤く、50センチもあるふさふさした尾をしていてたいへん美しいものでした。
中国人たちはこれを「山の子」とか「火狐(フオホー)」とか呼んでいました。
それはレッサーパンダ(ロンドン動物園のものと同じ種)でした。
ダヴィドは白熊と火狐を比べ、両方とも竹を主食にしているらしいことと、死んだ「火狐」の胃には木の葉がつまっていたことに気づきましたが、それでも彼は、火狐が少なくともチャンスさえあれば動物も食べるだろう、と考えました。
ダヴィドはむしろレッサーパンダの頭と足の形に驚きました。
(火狐のそれが白熊にあまりにそっくりだったからです)しかし彼は白熊はクマであるに違いないし、一方火狐はアライグマかテングマ(ビントゥロング)の仲間だと信じこんでいたので、この2種に類縁関係があると主張しようとはしませんでした。

しかし、1870年パリでアルマン・ダヴィド神父が学問上の友人で動物学者のアルフォンス・ミルヌ=エドワールに皮と頭骨を見せたときに、事は明らかになりました。
ミルヌ=エドワールは本能的なひらめきで、体長1.5メートルもある黒白「グマ」とわずか60センチの赤黒「火狐」が同じ仲間であることに気がつきました。
尾があってもなくてもそれらは両方とも同じ形の頭と四肢をもち、歯式も同じであるため、生活様式も同じということになります。
・・・といったようなことが書かれています。
基本的に白熊について書かれている項目の中でのレッサーパンダ発見の内容なので、少々わかりづらいところもあると思いますが、参考にしてください。



書籍情報
著者) ヘルベルト・ヴェント
発行) 株式会社 平凡社

世界動物発見史

1988年8月25日 初版第1刷発行

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